ノー・フューチャー――『ドッグマンノーライフ』


(『ドッグマンノーライフ』稽古風景|左から:中野志保実・矢野昌幸・松村翔子・山縣太一・藤倉めぐみ・横田僚平・上蓑佳代・大谷能生|撮影=高木一機)


『ドッグマンノーライフ』は2016年6月1日〜6月13日、STスポットで上演された[1]。作・演出・振付:山縣太一。出演・振付:松村翔子・山縣太一・上蓑佳代・中野志保実・矢野昌幸・横田僚平・藤倉めぐみ・大谷能生。山縣太一が主宰するオフィスマウンテンの2作目だ。(1作目『海底で履く靴には紐が無い』(2015)、3作目『ホールドミーおよしお』(2017)。三作とも音楽家・批評家の大谷能生が出演。)

 フロアは上手奥が木箱の列でL字に仕切られており、その中に大谷がいる。劇中の台詞によれば、大谷演じる夫はおそらくリストラで失職して家におり、妻はスーパーのパートとして働きに出ている。仕切りの外では、スーパーで働く非正規雇用者たちの不安定な・足場の悪い生が描かれる。
 役者たちは皆、つねに「揺れ」ている。無意識的に見える反復的振動=ビートから、振付けられたストロークの連なりまで、「揺れ」はいくつかのスケールを持ち、それぞれの周期で反復する。揺れは各役者に独特であり、それぞれの身体の特異性(形態的、可動域的、癖的……)に根ざすと思われる姿勢とビートに、特徴的な動きのシークエンスが織り込まれている[2]。そこに、慣習から逸脱した言葉を多用する台詞が重なる。
 木村覚によるインタビューにおいて山縣は、本作を「今っていう現在と拮抗しているただのビートミュージック」[3]と呼んでいる。また「客席をダンスフロアに変えてやるぞー♡」[4]とも書く。実際、山縣が演出する動きと言葉は観客を「揺らす」。話すこと・考えることを可能にする言葉と身体の習慣的な型を、深いレベルで揺らし、「踊らせる」。
 本稿は『ドッグマンノーライフ』から8つの限定されたシークエンスを取り上げ、この特異な「ダンスフロア」の経験の一部を分析するものだ。目的は、この強烈にすばらしい作品に何が起きていたのかを知ること。分析には、私が鑑賞した4回の公演(2016年6月1日、8日、10日、13日)のメモと、戯曲、会場で販売されていた「演出メモ」、公演の記録映像(6月10日公演)を資料として用いる。動きの記述は主に映像に基づく。そのため本稿は、その日限りの動きと、日を越えて反復する動きを区別しない。一度の公演でしか起きないことと、複数の公演を通して起きることと、ともにリアルである。
 では、始めよう。


1 カバン語的身体

 大谷が壁に片足をつけては滑り落ちる。その姿を、足裏を部分的に浮かした中腰で見つめていた横田が話し始める[5]

横田:いつもならこんな事たやすいのになぜか今日は倍くらい時間がかかるって事ない?

 長袖Tシャツを首の後ろからつかんで脱ぎかけ、そのまま両手を落とす。

横田:靴下の片方が見つからないとか

 床についた両手が裸足の比喩となり、「靴下の片方が見つからない」という言葉に絡まる。そのまま手で歩く。

横田:ジーパンの裾上げしないから裾踏んじゃんってそのままだとこのままだと破れちゃうけどアクションを[……]

 前屈姿勢のため、横田のジーパンの裾は上がっている(=「裾上げ」)。言葉と身体は、互いに直接的な説明にはならない形でもつれて接近しつつ、両者の意味が部分的に食い違う(「靴下の片方」/両手、裾上げ/「裾踏んじゃんって」)ことによって分岐する。

横田:そいやチーマー[6]って町から消えた?

 左足ひねり、つま先浮かせ、右踵浮いて腰の引けた姿勢で両手を伸ばす(図1)。


図1

横田:かなり前に高知県のすげえ田舎に行った時に(右足後方に)小川にかかる橋の上に不良がたむろしてて近くに牛とかいるんだけど(伸ばした腕の間で顔が左右に動く)あれもチーマー?あの橋を渡る時に(右足前に出て中腰)ハウンド(両わき緩んで、顎先で両腕に交互に触れる)自分が(両腕後ろへ、観客を向いて)ドッグしたかもしれない[……]

 横田の言葉と身体は、絡まりあって特異な「形象 figure」[7]をつくる。山縣の用語では「からだことば」だ。


図2


図3

 演出メモには、この横田の形象/からだことばと関わる図が2つ見られる(図2・3。「ピーンとポンヌフ←ローリング」「アゴで渡る 橋の移築の美」)。横田の全身はバイクに跨る人である(=「ローリング(走行)」)と同時に、伸ばされた両腕は「橋」であり(=「ピーンとポンヌフ」)、その間を左右に跳ねる顎はバイクのボディ(=「アゴで渡る」)である。通り過ぎるとき橋=腕は後ろに行く(=「移築の美」「半転」)。すなわち横田の形象は、全体としてバイクに乗る姿を演技し、かつ部分において入れ子的に、バイクを取り囲む環境(橋=腕)と、環境中のバイク(顎)を物化する。
「ハウンド私がドッグ」という台詞は、ハウンドドッグ[8]のヒット曲「BRIDGE〜あの橋をわたるとき〜」(1992)の記憶にフックをかけ、橋と同バンドが連想で結びつくヤンキー文化を通して、四国の橋にたむろする不良たちの像に絡み(「あれもチーマー?」)、さらに「ハウンド」に「バウンド」を掛けて、腕=橋の上でバウンドする頭=バイクに絡み、複数の意味の系列を圧縮する。
 このような、言語/身体/記憶にまたがる複数の意味の系列を圧縮した「カバン語的身体」[9]としての「からだことば」が、本作の語りのユニットをなす。身体化されたジェイムズ・ジョイスとでも言うべき、高度に圧縮された言/身/憶の複合文体だ。圧縮された意味は一つに融けることはなく、むしろ差異において身体を複数の意味に分岐させる[10]
 だがこの記述は静的で眺望的にすぎる。実際にはフロアでこの眺望は与えられていない。揺れ動く身体から連続的に、バイクに乗る身体が「発生」しかけ、その身体から橋が「発生」しかけ、橋の上でバウンドする頭が「発生」しかけ、同時にハウンドドッグの歌の記憶が「発生」しかけ、もつれながら逸れていく。フロア上の形象はその意味を確定せず、理解の線を引こうとする観客を高速で振り落としていく。

横田:[……]あの時から当たり前の事がいちいちにに気になり出した。例えば目の前の座ってこっちを見てるあなたの事だったり。「ドッグマンノーライフ」始めます。


図4

 両脚を交叉し、足裏内側を浮かせた無理な姿勢で、横田が観客の方を振り向く(図4)。不安定な足元により誇張された身体の揺れが、観客の身体をも触発する。横田の体の揺れは、その言葉の揺れ(「いちいちにに」)と、この間ずっとL字枠の中で足を壁に滑らせ・腰を落とし・片腕をぶらぶらさせ・あるいは足首をつかんで背中から倒れていた大谷の体の速い揺れと、またそのさらに奥で、右足を高く上げて開口部の縁にかけ・大谷をじっと見つめながら頭を徐々に動かし・舌をゆっくりと出してまたしまう松村の体の遅い揺れとともに、多数の周期からなるビートをフロアに刻む。


2 変状の連鎖

奥から前にやってきた松村が揺れながら観客に語り始める。

松村:[……](大谷から受け取ったペットボトルを返そうと渡しかけるが渡さず、そのまま反対の下手方向に歩く)あのー、私じゃなくて(下手の三角台の上に立つ)主人の(ペットボトルをもった右手で大谷を指す)、や、旦那のって話で考えたら変ですよね、夫の事を主人て呼ぶなんて、飼われてるわけでもないのに「あるじ」なんて呼び方もありますよね。


図5

 このとき奥の椅子に体育座りする中野は、松村を見ながら相槌し、ついで大谷を見る(図5)。壁に額をつけて体をねじっていた横田は、下手を向いてメガネを外す。大谷は上半身だけ腕で支えた横臥姿勢で、遅れて松村を見る。松村も大谷を強く見返す。大谷、軽いあくび。自分の臭いを嗅ぐように顔を逸らす(=犬っぽさ)。松村は観客を向いて続ける。

松村:(ペットボトルで大谷を指して)あるじは(大谷を見て、再び観客へ。大谷は足で壁をトントンと叩く。このとき再び奥の壁に額をつけた横田はメガネを外して後頭部にかけ、後頭部で観客を「見る」)奥方に向かってお前とか、おいとか、まるで飼っている動物のように声を掛けたりすることもあるのに(大谷、脚で壁トントン)、あるじ。(松村は中野に接近して膝にペットボトルを置いて話し始める。そのあと離れて)[……]それで主人が家に朝からげつまでいるので私が今まで室内犬の私が外でドッグすることにハウンドなりまして[……]

 場を共有しない複数の視点と、反転的な「主/奥」関係が交錯する。大谷と松村の間だけではない。中野は松村に物のように扱われる「奥」だが(=膝にペットボトル)、その視線の向きでフロアの注意の焦点を操作しうる「主」でもある。横田は観客に対し「奥」の壁で背を向けていると同時に、後頭部のメガネで見つめ返す「主」でもある。この錯綜した布置の全体において、「主人/奥方」という言葉が何重にも異化される。
「朝から晩まで」が「朝からげつまで」に言い換えられることで大谷は平日も家にいることが圧縮的に示される。いま「主人」は「飼い犬」となる。だが室外に出てスーパーで働き出した松村も完全に「主人」になることはなく、このあと犬の名を連呼しつつ「ベロをしまい忘れ」、やはり「犬」であることを示す。
 松村がベロについて語るタイミングで、中野は椅子の座面に立ち、つま先を浮かせ踵に重心をかけた不安定な姿勢で揺れ始める。松村が退場して照明が変わり、中野が中心に照らされる。中野は不安定な姿勢のまま、照明のはずれたところにいる大谷を見る(図6)。


図6

 暗がりで大谷が言う。

大谷:(中腰、おぼつかない足取りで足踏み)家内には迷惑かけるなあ、(ふっと右手を背中に、肩甲骨の下に添える。左回りして観客を向く)家内って呼んでるのに(左腕をぶらぶら回しつつ左回り。一周して)家外で働かしてるし、(左腕ぶらぶら。二周して)もともと室内犬だったんだけど、(左手くいっとメガネ触る。そのまま頭を押して後ろによろめく。右手背中からはずれ後上方にのびる、体は横向き、顔は観客に向けて)今は外犬、(右手で自分の後ろ髪を後方に引っ張る)八犬伝。(左手ぶらぶらしながら軽くしゃがみ、左手ベルトをつかむ、右腕前に放り投げ、壁を触る仕草。右手ベルトに、左手はふと離れて)というのも(左手顔に触れて、払い)割愛しますが(両手太腿に、腰を落とし、右手で何かを引く、左手で何かを払う、両手を下げて前屈し)それも(徐々に上体起こし)これもルビーモレノ。(右手伸びて何かをつかみ、両手右後方に。後ろを向いて、軽くジャンプ。両手振り払う)うだつの私が下がらない鼻っぱらピノッキオ。要するに(両手首合わせ、右手離し、左手壁に触れ)リスのトラです。(左手メガネ触り、左脇腹を押してから離し)コシです。(両手前に伸ばし、木枠に手をついて前屈、上体起こしつつ)いやクビです。

 うだつの上がらない私/下がらない/鼻っぱしら/下っぱら/鼻っぱら/鼻の下を伸ばす/(鼻が伸びる)ピノッキオ……。複数の慣用表現がカバン語的に圧縮されることで、語の内に埋め込まれていた「動き」が異化されて働き出し、ぶらぶら揺れる大谷の動きの見えに影響する。「リストラ」という語もまた、語の中の動物(栗鼠の虎)を解放し、「首(切り)」を「コシ」と言い違えることで身体に繋留して動き始める。大谷の身体は複数の語に引っ張られて回転する。


図7

 中野は座面の上、つま先を挙げた不安定な姿勢で大谷をじっと見ている。ときに大谷の動きに影響を受けて揺れ動く。大谷がふっと右手を背中にやると、中野の上体もつられるように揺れて背中を反らす(図7)。大谷が大きく回転すると、中野もバランスを失うようにぐらつく。それはあらかじめ設定された動きのルールというより、力学的に不安定な姿勢でじっと見ることにより、知覚された環境の動きにつられてつい自分も揺れてしまうという、内発的な揺れの連鎖として感じられる。2人の間に言葉や表情による社会的コミュニケーションはない。それゆえ異なる「場」にあると感じられるが、身体は影響を与えている。それは内面的「心理」にも社会的「伝達」にも還元されない、他者の影響の自己の身体における表現である。この、他者を含む周囲の環境からの影響が内発的な動きにおいて表現されることを、スピノザの用語を借りて「変状 affection (affectio)」と呼ぼう[11]。つま先をあげた中野の不安定な姿勢は、この「変状」を、観客の目に見えるように増幅して表現する[12]
 大谷が「ルビーモレノ」[13]と言うのに合わせて、中野の目は大谷から逸れ、ゆっくりとフロアを横切っていく。それと同時に、いままで大谷を見る中野の視線に「吸収」されるように大谷に注目していた観客の意識もまた、フロアに広がっていく。中野は椅子を降り、顔を突き出して(いわば鼻で見るように)、フロアの下隅と、観客と、大谷を順に見つめる。
 観客の身体はこのとき、中野に見られることで変状する。観客−中野間には、中野−大谷間と同じく共有される会話の「場」はなく、しかし視線と身体の影響関係がある。山縣の作品では役者たちはときに観客の顔を強烈にじっと見つめ、見つめることで観客の身体/情動を動かし、その動きを確かめるように次の動きに入る。観客の身体は、見られることでフロアの変状連鎖の一部となる。
 この点で山縣作品における観客の身体経験は、ルールによって「外形」を振り付けていくタイプのダンスよりも深く、強力だ。客席を含むフロアのすべての動きは、「内発的」変状のきっかけとなりうる。山縣作品において役者たちはしばしばフロアに起きる物音(咳、小物が落ちる音、空調の変化)に敏感に反応し、身体の変状を返す。すべての些細な動きは、なかったことにされない。観客の身体は消されていない。この役者たちの敏感な身体を映すように、観客の身体もまた、同じフロアにおいてあらゆる動きを感受し、内発的に変状していくモードに変わっていく。観客もまた、揺れ始める。


3 分裂的形象

 観客を見つめる中野の右肩がぐうっと落ちる。中野が「多々良たたらさん」[14]に呼びかける。

中野:多々良さんちょっと話をきいてもらえお耳汚しいいですか?


図8

 重心は踵にかかり、つま先を浮かせ、落ちた右肩が後ろに引かれるように下がり、そのまま後ずさりする。ふっと右肩を異物のように見る(図8)。今度は左肩がぐうっと落ちてくる。

中野:多々良さん多々良さん聞いてますか?やっぱり聞いてないか。

 左肩落ちたまま、観客を見て後ずさりする。再び右肩が下がり、大谷を見て、大谷が足を壁にかけようとして滑り落ちるのを見てぐらつく。左肩ぐっと落ちる。また大谷を見て、ぐっと背中を持ち上げた勢いで自分の左肩に「咬みつこう」とする。ぐらっと揺れて左膝を床につく。再び立って、左足は外側のみ床につけ、左膝をぐらぐら揺らしながら、言う。

中野:自分は本当に腰抜けだな。

 観客を見る。ふっと右肩を見て、観客を見て、大谷を見る。大谷は中腰で後ろ髪を自分で後ろに引き、ぐらぐら揺れている。横田は左手を腰の後ろにあてている。

中野:車イスだ車イスだ車イスだ(踵を浮かし左膝を撫でる)車イスだ。(踵で立って、後ずさりしつつ)腰椎あわれみのだ。

「腰抜け」の喩は、「車イス」・「腰椎」と語のグループを作る。「腰椎あわれみの」は「生類憐れみの(令)」[15]を想起させ、「犬」と反転的な主従関係にまつわる意味の系列を賦活し、それを腰に繋留する。最初の「車イスだ」で藤倉がフロアに現れ、横田の隣、壁の前に正面を向いて立つ。藤倉は身体を極端に反らしたり丸めたりしながら前後にジョギングを開始する。腰を中心に多方向に動き始めた語は、フロアの複数の身体の動き――膝が砕ける、肩が落ちる、つま先を浮かして後ずさりする、腰に手を置く、腰を極端に反らしたり丸めたりしながらジョギングする、中腰で後ずさりする――にフックをかける。
 中野が続ける。

中野:多々良さんがうちのスーパーにパートに来るようになって今までいたキャスト、あ、働いてる人の事ね。が活き活きしてきたのは何故だか無関係じゃない気がして[……]

 劇場と商空間における労働が「キャスト」の喩を介して重なる。中野は後ずさりしながら左右に移動し、前後する藤倉にぶつかりそうになる。自分の左肩を咬もうとする(図9)。


図9

中野:[……]ダーウィン探偵会社[16]に、(中野、後ずさりして三角台に腰を下ろし、大谷を見る。大谷、壁に片肘をつき胸を押さえる。藤倉、横田の手をとってつなぐ)何故だか無関係じゃない気がしてダーウィン探偵会社に頼もうかとも思ったんだけど(再び左肩を咬もうとする。立ち上がり、今度は右肩から後ろに引かれる)あれ浮気専門?(右肩から激しく後ずさりしつつフロアを一周)ホコリのたたない人は(左肩を咬もうとして前に出る。一回、二回。つま先を浮かせて再び右肩から後ずさり)煙でないよね。

 叩けば埃が出る(=詮索すれば誰でも汚点が出る)/火のない所に煙は立たぬ(=事実がない所に噂は立たない)。事実の見方において異なるベクトルを持つ2つの慣用句が、1つの新しい句=「ホコリのたたない人は煙でないよね」に交叉的に圧縮される。圧縮された言葉は、右肩への引っ張られ/左肩への咬みつきという2つの姿勢に交叉的に引き裂かれる中野の身体とともに、分裂的形象をつくる。(演出メモにはこの分裂した姿勢について「肩意識(右 文鳥┌見る、左 おまんじゅう┌食べる)」という指示が見られる(図10))。言葉と動きの複数の系列は一つの身体の上で圧縮され、かつ分岐し、一つの動き・一つの意識に収斂しえない全身を全面的に表現化する。


図10


4 死喩の転生

 こんどは藤倉が「多々良さん」に話しかける。両腕をあげて背中を大きく反り、やや左に重心をかけ、観客に背を向けながら、話す(図11)。


図11

藤倉:単刀じかれで抜き打ちすると不景気で背骨?自分うとくておっとりがたなだったもんで今までは主従でやり取り背筋ピーン。

 比喩が時代からずれて比喩としての意味を失ったもの、あるいは比喩であることが忘れられるほど慣用化したものを「死喩 dead metaphor」と呼ぶ[17]。妻を「奥方」「家内」と呼ぶのも死喩である(現実との対応を失った空間的換喩)。ここでは「刀」に関わる死喩が、誤用的・逸脱的・重複的に使用されるが、そのことで語の内に喩の力と動きの気配を取り戻し、「転生」しかける。単刀直入→じかれ、抜き打ち(=刀を抜くと同時に斬りかかること)、(打ち)首→背骨、うとい・おっとり→押っ取り刀(=危急のとき刀を手に持ったまま駆けつけること。「おっとり」の逆)……。「転生」は自明でも完全でもなく、発生しかけるオルタナティヴな意味と動きの気配が、言語/身体/記憶を縫って流れていく。藤倉の反り返った背筋は「刀」となり、転生途上の形象の依代となる。

藤倉:鬼はばかり、全部がピン子に見えてフロイド。

(渡る世間は)鬼ばかり[18]/(憎子世に)はばかる[19]/(泉)ピン子[20]/(ピンク・)フロイド[21]。山縣の言語使用についてはしばしば「ダジャレ」と言われるが、そこには単なる言葉上の掛け合わせがあるのではなく、水準の異なる複数の「習慣」が、言葉の滑脱を介して圧縮され、揺らされていると言うべきだろう。「テレビドラマのタイトル」と「ことわざ」と「芸名」は、それぞれ異なる時間的水準で、社会経験についての特定のフレーミングを喚起する現代日本語の習慣的型(個人の経験と社会の歴史において強結合した言語と認識の型)を作っており、それが、発声する者と聴く者の身体において揺らされる。ここでは、労働空間と家庭空間をともに拘束する前近代的主従の型が圧縮的に喚起される。山縣の「からだことば」が働きかけるのは、個人の歴史とそれが埋め込まれた社会的・文化的環境の歴史において、言語/身体/記憶に蓄積した習慣的な型である。
 藤倉が続ける。

藤倉:そんな折り、朝刊の折り込みにこの大型スーパー「ドッグ論語オン忘レーヌ」の募集が目に鼻にジューってなって頭より身体が先にやっぱり頭が先かな?

「ドッグ論語オン忘レーヌ」は、「ドッグ・ラン(=犬を自由に走らせられる公園・施設)」+「論語」+ことわざ「(犬は三日飼えば三年)恩を忘れぬ」+「ドッグ・レース」だろうか。圧縮された犬と主従の主題だ。「そんな折り……」で、大谷はL字枠に指を立てて時計回りに移動、「ドッグ論……」でYシャツの右肩を壁に擦り、シャーーッと音をたてて奥に早歩きする。犬の走りドッグ・ランだろうか?
 あわせて上蓑がフロアに斜めに入ってくる。上蓑は藤倉の背を見ながら、模倣するように両手を挙げ背中を大きく反らす。ついで所在なげに揺れ、とつぜん側転。奥の壁に顎をつけていた横田が上蓑を見る。不安定な内股で立つ横田は、片足を痛めたように引きずる上蓑を見ながら自身も揺れる。中野は三角台に登る。上蓑は椅子をフロア中央に運び、ヘラヘラと笑いながら肩を揺らし、「多々良さん」に呼びかける。中野は背中越しに藤倉を見て、模倣するように両手を挙げ、背中を反らす。上蓑は「ダイオウイカ」の話をしつつ片足跳びで移動し、藤倉の両手首をつかむ(図12)。


図12

 ここにはさまざまな意識の度合いで行われる変状・模倣・接触の連鎖がある。会話の「場」は共有されない。役者たちは、言語的・表情的コミュニケーションの不在によって互いに分離されたまま、身体の変状・模倣・接触によって連鎖し、「群舞」へと向かう。


5 無関連的群舞

 山縣が矢野の両手を引いてフロアに現れる。矢野は両手に靴下を履いている。2人は正面奥の壁に背をつけて並び、腰を落とし、両手を前に差し出す。ついで松村がカニ歩きで現れ、藤倉と並ぶ。松村たちは山縣たちと斜交いで向かい合う。フロアに8人の役者が密集する。

山縣:多々良さんてここまで何で来てるんすか?
(約8秒の沈黙)
松村:?え・・・?とここまでっていう?のは私のここまでのほし人生っていう意味ですくわ?[22]


図13

 山縣の視線は下げられており、松村を見ない(図13)。松村が話し始めると、山縣はそれを無視して90度回転し、体の向きをずらす。長い沈黙と視線の分離により、山縣と松村の発話は、文面上明らかな応答関係にあるにもかかわらず「無関連化」する。無関連化はフロアの全体に生じており、視線を交わさない各身体は意味的に分離される。身体たちは集まり、並び、ときに接触するが、コミュニケーションの場を共有しない。フロアは砕けている。暗闇で大谷は後頭部をつかみ、ぐるぐる後ろに回っている。山縣は両手を差し出し、中腰で踵に重心をかけ続ける。
 音楽はない。各自の身体の微細な揺れが潜在的なビートを作る。松村の台詞が1980年代末から90年代初頭の(あるいは端的にバブル期の)日本の文化的記憶にフックをかける(「ウィンク」[23])。松村は足を上下し、腕を前後に揺らす。大谷が木箱を持って床の上で少し動かす。ズーッ。ザーッ。上蓑が椅子の上で体をもぞもぞとねじる。横田が壁に向かって親指を立て、踊るような仕草を続ける。動作によるビートが顕在化していく。下手奥の開口部にいた山縣が、いきなり尻から勢いよく床に倒れ、回転して壁を蹴り、また倒れて回転する。ダスン、ドスン、ダスン。照明が暗くなっていく。山縣は倒れ続ける(図14)。


図14

 松村はこのとき藤倉の尻をぎゅっとつかんでいる。山縣の衝突と呼吸の音。中野が言う。「ワンワン、ツーツー、スリースリー、フォーフォー、ゴーゴー、ロクデナシ、七転び、はち転び、九九九くくくってその笑い方、まるでとうさん」。間に「ワン!」「ワン!」という掛け声。音が足されていく。松村が言う。「ごめんなさい。昔を思い出してました。子供の頃の記憶に突然引っ張られたりしない?」 多重のビートの中で、意識が過去の記憶へと引っ張られる。
 転倒が止まる。床に這う山縣が言う。少し長く引用しよう。

山縣:すみません。シケモクがシケってて、結局ライターの火をじっと見て心がざわつくのをただやり過ごしているうちにどこからか陽気なそれでいてノスタルタルな歌が耳にいや全身にメタルしてちょっとボディソニック状態。あの歌は多々良さんのオリジナルなジュディ・オンググ[24]
(5秒沈黙。この間、松村は藤倉の尻から手を離し、替わって中野を背中から壁に繰り返し押しつける)
松村:子供の頃の記憶にふっと意識が飛んでしまう事ってありゃしません?
(5秒沈黙。この間、松村は中野の背を激しく押して壁に打ちつけ続ける)
山縣:そう言われましても、こう見えてノンケなんで。でも若い頃ピースボート[25]に憧れて小林カツ代[26]さんの本を読み漁ったことが自分の恥部として未だにくすぐったいようなそれでいて現在進行系の自分のマインドもナウなのかなとも感じますね。(松村の脚の間を這ってくぐる)今短時間でかっこつけようなどと思ってしまった自分の卑しさも嫌いじゃありませんし。
(5秒沈黙。松村、中野の背から手を離す)
松村:子供の頃の記憶にふっと(山縣、両脚を床から持ち上げて飛ばす)意識が飛んでしまう事ってありゃしません?
(5秒沈黙)
山縣:再度チャンスをいただけてありがとうございます。もうオーディションは始まっているのですね。小林カツ代の引用がマイナスポイントと捉えて改めまして再考し最高の子供の頃の記憶で、一番ビビットなのは(大谷、糸を後ろに引く仕草。矢野、引かれるように後ろに下がる)中学生の頃あれは十四才だったか遠足に行って便意が我慢できず、(山縣、脚を4の字にして持ち上げる)野外でポンヌフした後に(脚倒れる)紙がないので、Tシャツでヒップを撫で上げてるのを、ヤンキーみたいなボンタン飴[27]に見られて、その後私のしこ名[28]がウンTになったんですね。あれは嬉しかったなあ。(松村、藤倉の太腿をつかんで揺らす)その前の源氏名[29]がたんつぼだったんですね。

 差し挟まれる5秒間の沈黙と受け答えの非接続により、山縣と松村の「会話」は、記憶を主題としながら無関連化している。役者たちの言葉と身体は異なる仕方で複合する。
 山縣の台詞は90年代前半の記憶に多重のフックをかけるが、名の言い間違い・掛け違い(ノスタルタル、ジュディ・オング(グ)(=音楽おんがぐ)、ピースボート×小林カツ代、遠足でポンヌフ、ヤンキー×ボンタン(飴)、(あだ名)・しこ名・源氏名)によって、複数の記憶が混線させられ、思い出せない過去に意識が引っ張られる感覚を生みだす。「ポンヌフ」はフランス語で「新しい橋」を意味し、映画『ポンヌフの恋人』(レオス・カラックス監督、1991)を喚起するとともに、「野糞」を表す独自の擬態語(ぽんぬふ)として用いられる[30]。90年代初頭の文化的記憶と中学時代のいじめの記憶が混淆され、「ポンヌフ」の語に新しい身体が与えられる。
 山縣の台詞が子供の頃の記憶に引かれるとき、大谷が宙で後ろに引く仕草をする。その仕草につられるように、矢野の身体が後ろに引かれ、回想という過去/後方への動きと同期するように見える。回想する意識の動きは、ばらばらに砕かれ、混ざり、体外にはみ出し、別の体に具現化する。大谷‐矢野の引く/引かれる動きはこのとき、山縣‐松村の激しい動きと「会話」に対して、意識されにくいフロアの「非注意トラック」[31]にあるが、気配として感知される。
 松村が藤倉の太腿をもって激しく揺らし、山縣に向かって言う。「聴こえるように言ってんだからちゃんと影響を身体で表現しろよ」(図15)。変状の自己言及だ。しかし松村に対する「応答」は山縣の身体には明示的に表現されず、かえって観客を含むフロアの全体に開かれる。「影響」はフロアの複数の身体の変状に分有されている。


図15

 緊迫した時間の中で、矢野が一度前に進み、また後ろに下がって山縣と「合体」する。矢野は便意を我慢するような叫び声を上げ、「多々良さん」に語りかける。ずっと奥の壁にいた横田が前に出て言う。

横田:演劇っぽくなってきたぞっと。ここらで戯曲には書かれてない深い部分まで潜った表現が立ち上がって挙手しだすぞ。音や光も例えば舞台美術でさえも舞台に立つ、表現を立ち上げる人間ができるはず。「ドッグマン脳ライフ」[32]始まってます。

 あわせて、これまでばらばらだった役者たちが横一列に並ぶ。17秒後、同じ台詞がポーズを微妙に変えて繰り返される。

横田:演劇っぽくなってきたぞっと。ここらで戯曲には書かれてない深い部分まで潜った表現が立ち上がって挙手しだすぞ。音や光も例えば舞台美術でさえも舞台に立つ、表現を立ち上げる人間ができるはず。「ドッグマン脳ライフ」始まってます。

 矢野と大谷をのぞく6人の役者が一斉に観客を向く[33](図16)。非同期的なビートの群れが一気に収斂する。ぞっとするほどかっこいい瞬間だ。


図16

 いったいこのシークエンスには何が起きているのか? 事態は多重で複雑すぎる。照明が落ち始めるところから横田の決め台詞までの約8分間に範囲を絞り、個々の役者に視点を置いてもう一度記述し直してみよう。現実には、以下(1)〜(8)は同時に起きている。高速で読み、ビート音楽のトラックを一つずつ鳴らしていくように、頭の中で重ねてほしい。

(1) 中野:つま先を三角台に、こめかみを壁につけ、腕をぶら下げ踵を浮かせ、背と骨盤をじっくりと動かし続けている。転がる山縣の方を見つつ(図14)「ワンワン、ツーツー、[……]まるで十さん」。しだいに踵を下ろし、下半身の重さが足裏に乗る。上半身下がり、壁に頭頂をつけねじっていると、不意に松村に背をつかまれ、約1分間、壁にぐいぐい押し付けられる。踵を浮かせ、上に手を伸ばす。両手しだいに下りてくる。山縣の「ウンT」話に続いて「男が語る自分の昔の武勇伝って本当クソつまんねーしな」。腰が落ちていく(図15)。壁を押すようにぐらぐら揺れる。松村に左足首つかまれる。逆らって左足が浮く。引き下ろされる。約25秒間繰り返し。抵抗する体の揺れがビートをつくる。松村の手が離れた後も、左足を中心にした全身の揺れが続く。横田が話し始めるとゆっくり背を向けてまっすぐ立ち、一列に。横田の二度目の決め台詞「〜始まってます」で、ゆっくり90度回転し観客を見る(図16)。
(2) 松村:観客に背を向け、中腰で股を開き、右手で藤倉の左尻をつかむ。上半身をぐりぐり揺らす。山縣が倒れ始めると体を固くし、揺れを止める。左手をやや後ろに引く(図14)。「ワン!」「ワン!」の掛け声。リズムをとるように左腕を揺らす。腰をぎゅーっと落としてふっと力を抜き、「ごめんなさい。昔を思い出してました」。右手で藤倉の尻をつかんだまま、左腕を落ち着きなく動かし、後ろへ引く。「……ジュディ・オンググ?」でぱっと尻から手を離し、中野の背を押す。「子供の頃の記憶に……」と言いつつ、中野を壁にぐいぐい押し付ける。手を離し、中野の背中を右手指で繰り返しなぞるようにする。「子供の頃の記憶に……」。両手で中野の肩の形をなぞる。「野外でポンヌフした後に」で腰を落として左右に揺らし、勢いをつけて藤倉の左太腿をつかむ。約1分間、藤倉が立っていられないくらいに太腿を激しく揺らし、ビートを作る(図15)。上体を落とし、「聴こえるように言ってんだからちゃんと影響を身体で表現しろよ」。矢野がフロアの前に来ると、太腿をつかんだまま止まる。再び次第に上体の揺れを大きくしながら手を離し、三角台に左足をガツンと乗せ、「タガが外れてきたかなあ?」。落ち着きなく上体を揺らしながら中野の背に迫る。矢野が叫ぶとそちらを見る。中野の左足首をつかんで繰り返し引き下ろす。矢野の台詞が終わり(「……ここまでギャグでシュガーコーティングしてれば……」)に差し掛かると手を離し、約15秒遅れて応答(「どこがシュガーコーティング何だか分からないけど……」)。話しながら真っすぐ立つ。横田が話し始めると一列に。二度目の決め台詞でゆっくり回転し観客を見る(図16)。
(3) 藤倉:背を向けて肩をすくめ、松村に左尻をつかまれたまま、うつむいてじっと立つ(図14)。立ち続ける。手が離れてもじっと立つ。左太腿をつかまれて揺らされる。(ぐらっ)ダン、(ぐらっ)ダン、(ぐらっ)ダン。全身が大きく揺れる(図15)。揺れがおさまる。矢野がああ〜っと叫ぶのを見つめ、影響されるように上体を縮める。横田が話し始めると歩いて一列に。肩をつかまれる。二度目の決め台詞でゆっくり回転し観客を見る(図16)。
(4) 山縣:しばらく下手奥の開口部に手をかけて奥を見つめる。とつぜん、役者たちの間に突っ込んでいき、背中から倒れて後ろに回る、足で壁と床を蹴る(図14)。約2分間繰り返し。ドスン、ドタン、ドタン、息遣い。右膝裏を押さえて横たわる、足首を抱えて床上でよじれる。負傷したサッカー選手のよう。脚を組み、拳を床に立てて揺れる。平静な声で、「すみません。シケモクがシケってて……」。息荒く、脚を組み右手で左肩を押さえた姿勢で床をずりずりと背で移動。中野の背を押している松村の脚の間をくぐる。上背部で体を支えて両脚を上方に伸ばし、ドスンと落ちる。脚を組み左手で右肩を押さえて背で移動。「遠足に行って便意が我慢できず」で組んだ脚を4の字にして持ち上げる。脚倒れる。両肩を手で押さえ、うつ伏せで這い、上蓑が座る椅子の下に頭を入れる(図15)。もぞもぞと頭を抜いて「……話を鎖骨のくぼみに鮮度のいい状態で戻ってきますよって」。ぐるぐる転がって奥の壁へ。ふっと立って壁に。下がってくる矢野を待ち構えて腰を落とし、両手を前に延ばした姿勢で矢野の背中に顔をつける。合体。矢野が叫びながら話す間も顔を離さない。顔をくっつけたまま歩き、横田が話し始めるとゆっくり離れ、背を向けて一列に。二度目の決め台詞でゆっくり回転し観客を見る(図16)。
(5) 矢野:靴下を履いた両手を前に出す姿勢で、フロア前面に立つ。観客を見ながら微妙に揺れている(図14)。「ワンワン、ツーツー、……」で少しずつ膝を曲げていく。床に膝をついて四つん這い。「犬」のよう。観客を順に見つめて次第に上体を起こす。ふっと立つ。肩を軽く揺すり、両手を再び前に出す。一歩ずつ、少しずつ上手に移動。観客を見ながら最前面で。体は影になっている。ときどき大谷を見る。L字枠の縁まで来て止まる。両手を出した姿勢のまま、大谷を横目で見つつ、頭を後ろからぐーっと引っ張られるようにヨタヨタと下がり、奥の壁へ。両手をときどき振り、また前に出す(図15)。「話を鎖骨のくぼみに……」でヨタヨタと前に出て、床の山縣を飛び越える。腰が軽く引け、体がぐらぐら揺れる。顔の前を手で擦る仕草。後ろに下がって、待ち構えていた山縣と合体する。便意を我慢するように叫びながら「多々良さん」に話す。腰の引けた姿勢で山縣とともに前に出て、横田が話し始めるとゆっくり離れ、背を向けて一列に。二度目の決め台詞でも背を向けたまま(図16)。
(6) 上蓑:観客に背を向けて椅子に座る。両足はおおむね床から浮き、椅子の貫に乗る(図14)。片足を抱えたり、背もたれの後ろを覗いたり。座面と背もたれを持ち、腰を浮かせ、体をひねる。座面の上でぐいぐいと力をかけて揺れる。膝で座面を挟み、足で座面の裏を叩く。手を頭に、片脚を上げ前後に揺らす。座ったまま前屈し両手を床につけ、ぐらぐら揺れる。戻る。両脚を座面の上で抱え、ぐらぐら揺れる。足を下ろし、背もたれを持って揺れる。顔を腕で隠す。両手を背にやり肩甲骨の間に置く。山縣の頭が椅子の下に入ると両足を上げ(図15)、尻でバランスを取り、脚で背もたれを叩く。大谷が操作する木箱をじっと見て、また体をねじり、座面の下を覗く。頭の後ろに両手をやる。話し始めた横田に両肩をつかまれる。二度目の決め台詞で椅子の上にスクッと立ち、腰に手を当てて観客を見る(図16)。
(7) 横田:背を向けて尻を突き出し、前腕で壁につく。背骨くねり、両膝開く。右親指を頭の上に持ち上げ、右足浮かせて体ねじる。右親指を立て、壁にひりついてぐりぐり全身を揺らす(図14)。右脚を壁につける。右手と頭頂を壁につける。腰をねじって壁にはりつく。左手を壁につけ、右手を背に回す。右手親指上げ、左手で右肘抱える。くねくねと壁際で揺れる。足交叉して、右手親指上げ、背伸び。ぐらつきながら下手に移動。壁にひりつく。再び足交叉して背伸びで、ぐらぐらと上手に。両手を壁に。左手を背にやってぐらつく。親指を頭の上に立てたまま、しゃがむ。右腕を伸ばして後ろに。「たんつぼだったんですね」で正面を向いて立つ(図15)。「鎖骨のくぼみに」で口をぱかっと開く。口閉じて、ぐらっと揺れながら下手を向く。片足立ちでぐらぐら。正面を向く。山縣が立つのに合わせて右手を挙げる。親指立て、右手を前に出したまま、体がぐらぐらとうねる。右手を前に置いたまま、体を壁に向ける。ぎゅーっと右手を出し、再び正面向きで立つ。ぐらぐら揺れ、左手を壁につけて背を向ける。「演劇っぽくなってきたぞっと」と言って前に出て、上蓑の両肩をつかみ観客を向く。「挙手しだすぞ」で藤倉の肩に腕を回す。「例えば舞台美術でさえも」で奥の壁を指す。大谷を見つめる。首を上げる大谷の動きを受け取って、二度目「立ち上がって挙手しだすぞ」でさらに前に出て腰を落とし両手挙げる。「例えば舞台美術でさえも」でメガネを取り自分の顔を指す。その姿勢のまま、「「ドッグマン脳ライフ」始まってます」(図16)。
(8) 大谷:L字枠をつくる木箱を少し前へ。ズーッ。その姿勢から、山縣が飛び込んできて倒れるのを受けて、ふっと後ろに倒れ床に手をつく(非注意トラックにおける変状の連鎖)。中腰で、立ち上がり、右手で壁を押し(図14)、ぐるっと回って両手で後ろ手に壁を押し、踵の浮いた後ろ歩き数歩。両手を床に。左足で立って壁に両手つき、ふっと手を放ち、前傾姿勢で大きく重く後ろに下がり、壁に両手をついて低い姿勢。左手で壁を押して体を飛ばし、低い姿勢のままぐるっと回る。左手で左足をつかみ、箱に右手をついて、左足を壁に、足滑り落ちる。右手を壁について体支え、右足を壁に、左手壁についてぐるっと回り、床に右手ついて落ちる(この間、山縣は「七転び、八転び」の動き。「落ちる」動きに関連が感じられる)。立ち上がり、右足を壁につけてシュッと滑りながら蹴り、勢いで奥の壁に左手をついて押し、右の壁に両手ついて滑り落ちる。立ち上がり、左足を左手で持ち上げ、手を入れ替え右手で左足裏をパチンと叩く。左手で後頭部をつかんで引き、両手両足下ろし、ベルト持ち上げ、左手で何かつかんでは引っ張る動作数回、右手で引き、そのまま股の下にぶらんと手を落とす。顔を上げ、中腰前傾で両手ぶらんぶらん、ぐっと胸を張り、またぶらんぶらん。両手上げ、中腰で伸び。両手を下ろし、股の下からぶわっと上げる。足から体をひねる、腰でリズムをとりつつ両肩の臭いを嗅ぐ、ぐーっと腰を落とす。腕を軽く曲げて前後運動、壁に左肘をつけて左前腕旋回、その手を見つめる。右腕の臭いを軽くかぐ。木箱の1つに両手をついてぐっぐっぐっと力を入れ、ズーッとずらす。見上げる。左手でカーテンをあけるような仕草、ひょいひょいひょいと歩いて奥へ。木箱に指を立てて前方に走る。右手でペットボトルつかみ持ち上げ下ろす。下を向いてひょいっと壁側に飛ぶ、ひょいっと木箱側に飛ぶ、ズズッとずらす。「子供の頃の記憶にふっと意識が飛んでしまう事ってありゃしません?」の台詞で後ろ髪をつかみ後ろ歩き(記憶に「引っ張られる」ようだ)。右腕で顔を拭く、ひょいひょいひょいと前に出て、木箱をつかむ。じーっと矢野の背を見ながら、少しずつ腰を落とす(このとき矢野も同期して腰を落とす)、壁に左手を後ろ手でついて、右手でぐいっと宙を引く(すると矢野が後ろに下がり始める)。後ろを向いて、体軽く反らせ、前傾して両太腿触り、「ヤンキーみたいなボンタン飴…」で腰を深く落とす。両手を腰の後ろに回し、尻を突き出した中腰で立ち上がる。左手を背中から回して右腕つかみ、腰を振る、右手でピロピロピロとかき混ぜる仕草、ついでぐるっと半周回る。両手外してぶらぶら。奥へ(図15)。観客見ながら、肩を少し入れ、横向いて歩く。ふわっと上向き、両手軽く上げ、右手出して何か払う仕草、左手で何か払う仕草。木箱をつかみ、矢野が山縣を跳び越すタイミングでズズッと動かす。隣の木箱を横にズズッと。もう一つズズッと。そのまま前傾で箱の臭いを嗅ぐ。もう一つズズッ。箱の臭いを嗅ぐ。箱に指を立て、ザーッと音を立てて前方に走る。そのまま曲がって壁に肩をつけ奥へ走る、Yシャツがシャーーッと音を立てて擦れる。箱に手をつく。臭いを嗅ぐ。矢野の叫びが始まる。中野の方を見て、また臭いを嗅ぐ。一つずつ繰り返し臭いを嗅ぐ。右手で後ろ髪をつかんで後ろに歩く。中腰で、腕から体をねじって回転、ぐるぐる回り、上をみて何か振り払う、顔を拭う。肩を回す。一度目の「ドッグマン脳ライフ、始まってます」でしばし中腰で静止し、観客を見る。後ろに歩き、軽く首を上げる。このとき横田が大谷を見つめているが大谷は見ない。中腰。二度目の「舞台美術でさえも」で横田を見つめる(図16)。

 フロアに揺れ動く身体が4以上になるともはや見通しがきかない。役者たちの身体は、一所に注目すると他が背景化・非注意化する8つないしそれ以上の[34]トラックにおいて同期〜非同期的なビートを刻み、その気配の全体で、観客の身体を内側から揺り動かす。トラックを構成する役者たちは互いに無関連化して閉じつつ、影響を受け合いながら変状する。観客もまた変状する。観客の思考する身体は、言語/身体/記憶を横断する複雑な記号連鎖に触発され、揺れることで、フロアの記号連鎖の一部となって「踊り」だす。


6 リフレイン

 回想の群舞が過ぎる。「祭りの後」の時間が始まる。
 奥の壁際にいた横田がフロア前面に出て靴と靴下を脱ぎ、話し・動き始める。その動きには、厳密ではないが次のようなストロークの反復がある。基本は中腰の前傾姿勢で、

観客席を右手で指差し→手握り→右腕を顔の前に→右手挙げて→手を開く→手握り→右腕を下げ→右の拳で左胸をバチンと叩く→右親指立てて右手前に出す→大谷に振り返る→顔を前に戻す→右腕垂れる

 各ストロークには歌の「こぶし」をつくるような揺れがあり、ストローク間には「ため」がある。その動きに、台詞が乗せられていく。

横田:[……](右手挙げて→開く)バイトして(手を下げ、上半身下げつつ、手握り)ないって言ってる役者ってだい(右の拳で左胸バチンと叩く)たい(右親指立てて右手をゆっくり前に出し→ふと大谷に振り返る(図17)→腕上げ下げ、片足浮いて、顔を前に戻す→腕上げ下げ、首傾けて)実家住まいで(右手を顔の前に)プチボン(観客指差す)ボン。俺バイ(別の観客を指し)ト掛け持ち(自分の顔を指差す。揺れ、右腕垂れ、上半身揺らして、右腕を体にひきつけつつ腰を上げ)舞台は(揺れ、右手挙げ)ノーギャ(顔を揺らしつつ、手開き)ラ。(踵・腰が持ち上がり)(踵・腰落ち、手握り)り笑顔に(右腕垂れ)0円(口を真一文字に閉じて、右の拳を胸へ、顔を左右にぶんと振ってから前を向き)提示(右親指立てて右手を前に出す)。[……]


図17

 動きのタイミングは言葉の切れ目と同期せず、立ち上がりをずらしたり速さを変えたりしながら、言葉の合間を縫っていく。動きの脈は言葉の脈との間に変動する距離を作る。(演出メモには、親指と名詞のタイミングをずらすこと、親指と大谷を振り返る動きの方向を分裂させることについてだと思われる指示がある(図18)。)


図18

 横田の場合に顕著だが、各役者には、それぞれに特有な動きの「リフレイン」が与えられている。中野の壁に頭をつける動き、藤倉の背を反る動きも、一種のリフレインだ。このそれぞれに特異な動作のリフレインが、台詞の脈と非同期的に絡まり、内部に距離をはらむ特異な言語=身体的形象をつくる。形象たちはフロアに布置され、自閉的に展開しながら変状し、多声の「演奏」を展開する。


7 多重体と思考

 横田の背後で、椅子に座る上蓑が始める。

上蓑:あ、そんで彼の家に横浜線?(右脚伸ばす、左脚伸ばす)(右腕伸ばす)須賀線?(左腕伸ばす)あれ何線だ?(顎左肩に)千葉まで伸びてる(顎右肩に)やつ。


図19

 椅子に座ったまま上蓑が両腕を前に伸ばすと、「線路としての腕」が発生しかける(図19)。両肩を行き来する顎は、二つの路線=腕を選択肢にする。左手で携帯を見るような仕草。伸ばしたままの右腕に横田が靴下を履かせる。横田の身振りは、前節から続く胸バチンのリフレインに織り込まれている。
 藤倉が上蓑に応えて「ああ、横須賀線かな?彼氏千葉の人なの?」と言う。上蓑はその台詞の始まりにかぶせて、藤倉の言葉を全く聞かずに次の台詞を言う。

上蓑:あ、ヤバチババチバチヤバチバディズニー。チババチバチトラブルヤバチバディズニー。[35]

藤倉は上蓑を聞く=応答の場を共有するが、上蓑は藤倉を聞かない=場を共有しない。2人の「会話」は以降も非対称的だ。
 藤倉は両手を挙げて背中を強く反らす、固有のリフレインを続けている。中野もまた、頭頂を壁につけ不安定に揺れる固有のリフレインを続けている。横田は藤倉の隣で胸バチンのリフレインを続けている。後上方にのびた藤倉の手が、横田のメガネに触れ、取る。横田は固有のリフレインを続けながら、取られたメガネを顔で受け取ろうとする。役者たちは人格的に無関連化したまま、部分において物体的に連鎖している。藤倉−横田の連鎖は、上蓑の形象と知覚的に拮抗するトラック——一方に注目すると他が背景化する——で行われる。この拮抗に対して、さらにもう一段背景的・非注意的な暗がりの中では、大谷の固有リフレインがダンサブルな無音楽ビートを刻み続けている。
 上蓑が自身の左手を見ながら言う。「[……]あ、鉄平も仕事終わって帰宅してくるタイミン。で私もう上がり込んで飲んでるんだけど鉄平がコンビニとかで明太子パスタの大きいやつ」。「あれ大きいよねー。……」と藤倉が言いかけたところで上蓑がかぶせる。「あ、鉄平って彼氏の名前なんだけど工場終わって……」。2人は同じ時空間に存在するとともに存在しない。いま・ここの唯一性が応答の非対称性によって無関連的二層に分離し、いわば「同時不発的」な会話を構成する。
 同じ内容の会話が、こんどは中野-上蓑間で反復される。上蓑は中野に対しても台詞をかぶせ、いま・ここの無関連的分離が強化される。中野は足を引きずりながら後ろ歩きで上蓑に近づく。

上蓑:あ、ヤバチババチバチヤバチバディズニー。チババチバチトラブルヤバチバディズニー。あ、ヤバチババチバチヤバチバディズニー。チババチバチトラブルヤバチバディズニー。あ、ヤバチババチバチヤバチバディズニー。チババチバチトラブルヤバチバディズニー。

 上蓑が同じ台詞を3回繰り返す間、中野は上蓑の肩から手にかけて指でトトトトッと「歩く」仕草をし、手の先端で観客を見て投げキッスをし、戻りながら背中で横田に激突することを6回半繰り返す(図20)。上蓑の言語=身体的リフレインによって導入された、中野の新しいリフレインだ。上蓑はこれに反応しない。横田はこの直前、自身のリフレインをしながら床に落ちていた靴下を拾い、背を反らし続ける藤倉の右手に履かせている。藤倉もこれに反応しない。


図20

 このとき藤倉-横田-中野-上蓑の間に生じている連鎖関係は複雑だ。藤倉-上蓑と中野-上蓑の非対称的な「会話」、4人の身体の機械的な接触・衝突、言語=身体的(比喩)形象の異なる場所における分有・同調(上蓑の腕の「線路」化とその上での中野の「歩行」、上蓑の擬態語「バチバチ」と中野-横田の「バチンバチン」という衝突と「千葉チバ」、上蓑と藤倉がともに片「手」に履く「靴下」)、藤倉-中野の台詞の反復による記憶の重なり。それぞれに異なる部分・異なる形で生じる連鎖は、人格的統合なしに重ねられている。役者たちは人格的な無関連性を保ったまま、言語/身体/記憶の複数の部分的連鎖を折り畳む多重体となる。
 多重体に生じる出来事は、人格の回路を通らず、人間たちの「劇」に収斂しない。しかしそれは抽象的形態の組み立てとしての「ダンス」でもない。それは個体分断的かつ横断的に、言/身/憶が交叉する複数のシークエンスを作り出し・折り畳む、諸記号の連鎖としての「思考」である[36]。観客はこの諸記号連鎖の全体に触れて変状しつつ、「理解」を内側から踊ろうとする。
 中野は上蓑を一方的に見つめながら踵で歩き、非対称的な「会話」を続け、腰を落として上蓑の太腿をバチバチと叩く。「私は自分に鏡越しにラリホー[37]やれないホー」。そのまま中野の体が横にずれ、手を振り下ろす動作だけが宙にリフレインする。動作は機械的に連結し、また分解する。横田は自身のリフレインを続ける。藤倉は背中を反らし続ける。大谷は上手奥の開口部に顔を突っ込んで横たわっている。下手奥の開口部から、両手に靴下を履いた矢野が出てくる。


8 犬たち

 両手を床、両足を壁につけた無理のかかる姿勢で矢野が言う(図21)。

矢野:ねいやー。いやみんながね、他のキャストがね、お客様の大切な泡立てて言うとくそつまんねえクレームの着ボイス見てこれ三輪みのわさんの事じゃないって小汚え笑い顔で言ってんの。


図21

 言葉の微妙な誤用(「泡立てて言うと」、「クレームの着ボイス」、「小汚え笑い顔」)が重ねられる。その言い方は通常しない、しかし可能であるという領域だ。複数の習慣的語句が混成し、動き始める。矢野が両足を下ろす。四つん這いでやや痙攣する。

矢野:ぽいすー。改めまして文言を述べますとお客様への対応?というかもうちょっと細かく網の目すると言葉使い?がちょっと狭いお客さんのたてがみに触れたのかなっていうね。

過剰な婉曲表現が新たな語法を生み(「改めまして文言を述べますと」「細かく網の目」)、逆鱗げきりん/たてがみの言い間違いが、逆鱗に触れる/たてがみ/髪を逆立てるを圧縮しつつ、可能な用法として新たに形象化する。言語は生々しく身体との関わりを作り直す。矢野が話しかけている三輪さん=上蓑はこの間、椅子の上に不安定に立ち上がり、また崩れ落ちて首を背もたれに掛け、椅子から落ちて四つん這いになる。中野は床に膝をついて壁に頭をつける。藤倉は背中を反らす。横田は自身のリフレインを無関係に続けている。その背後で、矢野が言う。

矢野:三輪さんこっち来て無いじゃない?実家ってひじの辺りでしょ?方言まだ抜けてないやろうし。僕も方言が完全に抜けるのには半年ぐらいはげにまっこともっこす。

「方言」という地理と結びついた言語の習慣が示唆される。地理は身体にアナロジーされる(「実家ってひじの辺りでしょ?」)。矢野は自分の口に靴下をつっこみ、モゴモゴと言い続ける。音楽が始まる。照明が落ちていく。ひっくり返った椅子の上に寝転ぶ上蓑が、約2分間遅れて[38]、完全に非同期化した「応答」を返していく(図22)。

上蓑:あ、なんか用すか?お、とりあえず今フラット聞いてていいですか?それとも当事者感覚?[……]あ、そんなこと私してます。してますか?ま、とりあえずまだ気持ちをゴマ和えにせず無自覚な部分をできるだけ自覚的にもう一度踊ってみます。[……]


図22

 スーパーの中間管理職だと思われる矢野は、「監督者」かつ「被監督者」であり、そのどちらにも安定しない。営業・男性・地方出身・中間管理職という構造的布置において、パートの女性との関係、他のパートとの関係、客との関係、上司との関係、「標準語」との関係、また自己言及的に演出家との関係の中で、何重にも拘束された身体のリアリティを山縣は矢野に振り付けている。他者の視線を通して自らを「正しく」造形しようとして、むしろ歪形化していく身体。その身体は、無関連的なフロアの他の身体とも変状でつながっている。無論、観客とも。


 ラストシーン、L字枠を作る木箱が移動し、大谷がフロアの前にくる。すると3人の女たち(上蓑・中野・松村)はフロアの「奥」に行き、ぎりぎりまで息を止めては、前に出て吐き、また奥に戻り息を止めることを繰り返す[39]。木箱は、大谷とともに観客を取り囲んでいる(図23)。どちらが「奥」か?


図23

 社会的解放が描かれるわけではない。変革の訴えもない。だが、現在がたんに肯定されているのではない。山縣は、私たちが深く埋め込まれているところの現在の習慣を複数のレベルで滑脱させ、動く生き物にする。習慣は表象=再現されず、むしろ役者と観客の体から直に引き出され、揺らされる。
 山縣の方法は、言語と身体と記憶を一定の形式に拘束する個体史的/社会史的/自然史的習慣をリアルに揺らし、そこに潜在する動揺に働きかけ、誇張し、さらに揺らす。そのとき私たちから、見通すことのできる「未来」が消える。習慣が予示する未来の先行的輪郭が失われる。「この先」の見えない現在のカーヴに体を押し当てて高速で曲がり続けるような力のグルーヴが現れる。言/身/憶の複数のシークエンスはそこで圧縮され、混乱し、遠心的に分岐し始める。それは観客を巻き込む、おそろしくたのしい群舞である。


※執筆にあたって、オフィスマウンテンから映像資料を借りることができた。記して感謝する。本稿はJSPS科研費26870204の助成を受けた研究の一部である。


平倉圭
2017.06.23公開
2017.06.29改訂



[1] 「山縣太一『ドッグマンノーライフ』」、STスポット、http://stspot.jp/schedule/?p=394
[2] 筆者が企画・参加した、山縣太一によるワークショップ「それぞれのからだことば」(2016年11月、横浜国立大学)において山縣は、各自の身体の(本人にとって気になる)特質を捉え、それを凝縮して一挙に「振付」に変える方法を示していた。
[3] 「稽古場インタビュー 山縣太一×大谷能生「ドッグマンノーライフ」」、『BONUS』スペシャル・イシュー、http://www.bonus.dance/special/07/、25:00。
[4] 前掲インタビュー、33:10。
[5] 戯曲には一部の台詞を除いて役者の姓がそのまま示されている。本稿も役者の姓で通す。なお当日パンフレットには役名が以下のように記されている。山縣:Y野、大谷:軒下じめろう、松村:軒下じめろうの妻、上蓑:三輪、中野:シ・ボミ、矢野:矢野やいの、横田:立川、藤倉:マグミ。「三輪」以外の役名が劇中で呼ばれることはないが、Yわい矢野やいのが交換可能な名前であることは劇構造上意味を持つだろう。劇中重要な位置にある「多々良さん」は役名としては存在せず、複数の役者間を循環する。
[6] 1980年代後半から1990年代前半にかけて、渋谷にたむろした若者不良集団のこと。後に他の地域の不良もそう呼ばれるようになった。
[7] figureという語には「人物の形」と「比喩表現」という言葉と身体を横断する意味がある。本稿では、言葉=身体複合体を指して「形象」という語を用いることにする。「形象」という語には静的な印象があるが、ここでは「」に動きを与え返しつつ、動的・生物的イメージを指しうる概念として用いたい。
[8] 1980年代後半から90年代前半に全盛だった日本のロックバンド。
[9] 「カバン語 portmanteau」とは『鏡の国のアリス』に由来し、複数の語の一部を組み合わせて作られた語のこと。例:「ぬなやかな slithy」←「しなやか lithe」+「ぬるぬるしている slimy」(ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』河合祥一郎訳、角川文庫、2010年、123頁)
[10] ジル・ドゥルーズによればカバン語は、2つの異なる系列を圧縮的に共存させながら「分岐」させる。G・ドゥルーズ『意味の論理学 上』小泉義之訳、河出文庫、2007年、87-96頁参照。
[11] スピノザ『エチカ(上)・(下)』畠中尚志訳、岩波文庫、1975年参照。人間身体の変状に限定して言えば、スピノザの用語では「情動 affect (affectus)」だが、心理的意味に回収されないよう、ここでは「変状」を用いる。
[12] この間、横田は後頭部にメガネをかけたまま背を向け続けているが、その姿勢の「注意深さ」において、やはり環境の影響を変状として秘かに表現しているように見える。これは微細だが、現実的な感覚だ。重力との関係において一見静止している姿勢が示す情動的 affectif 状態を、ユベール・ゴダールは「前-運動」と呼んで分析している。Hubert Godard, “Le Geste et sa perception,” Marcelle Michel and Isabelle Ginot, La Danse au XXe siècle, Bordas, pp. 224-229. 観客は自身の体の「重さ」を通し、ダンサーの姿勢が示す情動を自らの身体に感じる。ゴダールはこれを「重力伝染 contagion gravitaire」と呼ぶ。
[13] ルビー・モレノ。テレビドラマ『愛という名のもとに』(1992)のヒットで有名になった女優。
[14] 「多々良さん」は名の内にリズムを持ち、全体的に多重のリズムで構成されている本作の核を縮約的に表現する。
[15] 江戸幕府五代将軍徳川綱吉によって発せられた生類殺生禁止令。特に犬の愛護に厳しかったと言われる。
[16] 不倫・浮気調査を専門とした「アーウィン女性探偵会社」を連想させる。横浜を拠点に、相鉄線や京浜急行線に多くの車内広告を展開した。「ダーウィン〜」は、それを動物の問題系に掛け合わせる。
[17] 「死喩」については以下を参照。鍋島弘治朗『メタファーと身体性』ひつじ書房、2016年、287-319頁。
[18] 『渡る世間は鬼ばかり』。著名なテレビドラマシリーズ(1990〜)。姑による執拗な「嫁いびり」が描かれる。
[19] 憎まれるような人間がかえって世で威勢をふるう、の意のことわざ。
[20] 『渡る世間は鬼ばかり』の嫁役で知られる女優。
[21] プログレッシヴ・ロックの代表的バンド。
[22] 本作では「ほし」などの記号がときに声に出して読まれる。
[23] Wink。バブル期に活躍した日本の女性アイドルデュオ。
[24] ジュディ・オング。台湾出身の著名歌手。「おんがく」と掛けられている。
[25] 国際交流を目的とした日本のNGOによる船舶旅行。
[26] 著名な料理研究家(1937〜2014)。テレビ番組などで活躍。
[27] ボンタンアメ(セイカ食品)。遠足お菓子の定番であったと思う。ここではヤンキー(不良)が好んで履いた、ワタリが広く裾が細い変形学生服「ボンタン」に掛けられている。
[28] あだ名、また、相撲の力士の呼び名。力士が四股しこを踏む姿勢と、野糞をする姿勢も掛けられているかもしれない。
[29] 水商売の女性の呼び名。次作『ホールドミーおよしお』では「源氏名」が、名(言語)とイメージと身体の距離の結び目として用いられる。
[30] 「ポンヌフ」の語は『ホールドミーおよしお』でも用いられる。同作のポストパフォーマンス・トーク(2017年5月25日)において、「なぜ「ポンヌフ」?」と質問した筆者に対して山縣は、排泄は尻と地面の間に「橋」を作る、と答えていた。それじたい驚異的な身体感覚である。
[31] 「非注意トラック disattend track」という用語はアーヴィング・ゴッフマンから転用した。Erving Goffman, Frame Analysis: An Essay on the Organization of Experience, Northeastern University Press, 1986. pp. 201-246、および、安川一「〈共在〉の解剖学——相互行為の経験構成」『ゴフマン世界の再構成——共在の技法と秩序』世界思想社、1991年、9頁参照。
[32] 山縣作品では、固有名も異なる読みの可能性を分岐させる。『ドッグマンノーライフ』のタイトルには当初、「邦題:犬人間能生」という説明が付いていた(参考:「山縣太一のソロプロジェクト第2弾「ドッグマンノーライフ」に大谷能生が出演」『ステージナタリー』http://natalie.mu/stage/news/181468)。これはおそらく、大谷能生よしおの名を、ヴィジュアル系バンド・マイナス人生オーケストラの曲「犬人間よしお」(2012)を介しつつ大谷→「犬谷」→「犬人間ドッグマン」とし、さらに能生よしお→「のうライフ」と読み替えたものだ。戯曲でしか判別できない横田の台詞の表記「ノー」→「のう」は、この読み替え可能性を示唆する。大手CDショップ・タワーレコードのポスターの有名なフレーズ「NO MUSIC, NO LIFE.」(1996〜)も連想される。次作『ホールドミーおよしお』では、タイトルについて次のような驚くべき説明が与えられている。「大好きな大谷能生さんの名前を両手で両サイドからパンと叩いたらおよしおになります。/あとはしようよとおよしなさいよの意味もワインの一口目くらいは含んでいます」(「オフィスマウンテン vol.3 2017年新作公演 『ホールドミーおよしお』」山縣太一による公演に向けた挨拶、STスポット、http://stspot.jp/schedule/?p=3563)。名は圧縮され、分裂的に分岐し、フックを掛ける。2017年6月現在、予告されているオフィスマウンテンの最新作タイトルは「能を捨てよ体で生きる」である。
[33] 矢野は奥を、大谷は横田を見る。
[34] 1つの身体の中にも複数の動きのトラックがあり、現れたり非注意化したりする。
[35] この台詞は、前作『海底で履く靴には紐が無い』における大谷の台詞を高速で繰り返している。「ポンヌフ」などの表現とともに、複数の作品をまたぐリフレインを構成する。
[36] ここでは「思考」を、個体の意識内に局限されない記号連鎖(他の体における記号の反復・変奏)という拡張された意味で用いる。平倉圭「異鳴的うなり——ロバート・スミッソン『スパイラル・ジェッティ』」『アメリカン・アヴァンガルド・ムーヴィ』森話社、2016年、特に230-236頁参照。
[37] ゲーム『ドラゴンクエスト』シリーズ(1986〜)における呪文。敵を眠らせる。
[38] ここは戯曲と演出が異なる。
[39] 藤倉と横田はさらに「奥」、両開口部の暗がりの中に立つ。